子どもが元気に暮らせる地はどこ?

【名前】庭山由紀(48才)
【同居している家族】子ども(小6)
【3.11後の避難の経緯】群馬県桐生市→岡山県和気町(2012.11)

§ 子どもの体調が悪くなっていた

震災直後、鹿児島にいる知人が心配して連絡をくれたおかげで、子どもたちだけ避難させることができ、かろうじて初期被曝は避けることができた。 しかし、長男は小学校の卒業式、娘は保育園の卒園式があったため、数日後桐生に戻してしまった。
それ以降、息子は鼻血をよく出すようになった。心配になったので、子どもたちと私は血液検査をした。 その結果、具合が悪くなっていたのは娘のほうだった。
時を同じくして、文部科学省は「群馬県にもストロンチウムが飛んでいる」とホームページで発表した。 放射能の影響を受けているのではないかと避難を決めたが、夫は気にしておらず、息子は転校を嫌がった。 まずは、娘だけでもと、万が一の時のためにと探しておいた和気のシェアハウスに避難した。

§ 和気に来てよかった

和気には、家族に反対されながらも、子どものいのちと健康だけは守りたいと必死に避難してきた関東からの母子がほとんどだった。 みな、似たような境遇なので、助け合える仲間になっていった。
地元で採れる新鮮な野菜も美味しく、地震もない。 おだやかな気候と、なにより高濃度に放射能に汚染されていない土地。 群馬にはない海もあり、ボートやヨットに乗って島に行ったり、釣りにも行ける。 何より、子どもが元気に大きくなっている。 病気の子どもを見ることほどつらいことはないから、ここの子どもたちが元気にいたずらしながら遊んでいる姿を見られるのは嬉しい。

§ 子どもの手を離してしまった後悔

後悔しているのは、息子の手を離してしまったこと。 そのため彼と暮らすことができず、彼の成長を見ることができなかったこと。 そして「避難した方がいい」という医師の診断書が出たにも関わらず、4年半、放射能に汚染された土地から避難させられなかったこと。
事故前はなかったアレルギーやアトピーが出てしまった。 彼の健康を万全にして社会に送り出してあげたいけれど、夫も息子も「大丈夫」の一点張り。 とにかく、汚染されている土地から少しでも離れてほしいと願うしかできない日々だった。

けれど放射性物質は全国にどんどん拡散されているし、恐ろしい被ばく症状がでるのは何年も先になるかもしれないし、放射能が原因だと特定されることはないだろう。 多かれ少なかれ、被曝している私たちは、ずっと気をつけていかなくてはいけない。 税金だけ吸い上げて国民のいのちと健康を守る気さえ全くない日本の政治は、私たちの不安を日々助長しているだけだ。

震災前に当たり前に思っていた「ここで結婚して子育して仕事して、お墓はここね」というイメージが、今は描けない。 どこに行ったら大丈夫なのだろう、どこに行けば子どもたちが元気に暮らしていけるのだろう・・・と。 ずっと先も、数年後、数ヶ月後も、見通しが立たない生活を送っている。

§ 科学的根拠や論理的見解や歴史の学びはどこに?

原発事故が起こったとき、私は放射能汚染調査重点地域に指定された桐生市の市議会議員だった。 行政には、市民を守るために事実を知ること、知らせる義務がある。 しかし、桐生市は「放射能汚染調査重点地域に指定されただけで汚染されたわけではない」とし、原発の爆発さえ「国が大丈夫と言っている」と危険を認めなかった。 子どもを心配する保護者たちがが、教育委員会に空間線量や給食の計測を求めたが、何カ月も計測しないばかりか、放射性物質が検出されたデータは公表しなかった(今でも公表していない)。
加えて、汚染されている桐生市のゴミ処理も安全が確保されていないのに、東北地方の放射能汚染されたガレキの焼却まで強引に行われた。

原発の危険性や、公害に対して日本政府が行ってきた歴史や、科学的な根拠や論理的見解など、学生時代わたしに指導してくれた教授たちが、今回の事故のあと、誰一人として何も対策もせず、沈黙した。「学ぶ」ことの無意味さを感じ、虚無感に襲われた。
原発事故で、社会は変わるだろう、経済ばかりでなく、健康に生きていくこと、いのちを大切にする生き方を模索する人が増えるだろうと思ったけれど、そんな世の中には全くならなかった。

(2016.12.9 飯塚・高橋)