悩んだ末に岡山へ、今は後悔なし

【名前】島田夏実(34)
【同居の家族】夫(40)、子ども(5,3)
【3.11後の避難の経緯】鎌倉市(震災時)→岡山市(2011.3.18)→鎌倉市(2011.4)→西東京市(2011.6)→岡山市(2014.12)

§ 避難を決めた理由

汚染水もれの報道で東京の生活に不安を感じ、食べ物を取り寄せたりしていたが、このままの生活を続けられないと思ったから。

§ どこが危険で、何が安全?

3月15・16日は鎌倉の自宅にこもっていた。18日に祖母の住む岡山市へ一時避難し、10日ほどいた。 その後鎌倉に戻り、夫の仕事の関係で西東京市へ。 原発関連の情報収集はしつつも、「東京は安全」と考え、食べ物にだけは気をつかいながら生活する。

2013年冬の都知事選で汚染水もれが話題になり、報道がコントロールされていることを知って、「東京にいて大丈夫なのか」と思い始めた。 パルシステム(首都圏を中心としたこだわりの通販コープ)で食べ物を取り寄せていたが、「いつまでこれを続けるのか」とも思っていた。 岡山の祖母を訪ねるたびに、「こちらに来たら何も考えずにすむ」と思い、東京の生活を窮屈に感じるようになった。おかもり会(岡山盛り上げよう会)などが東京で開いた移住説明会に行って、話を聞いたりもした。

両親に話すも、移住には反対される。 母は添加物などへの意識は高いが、私が「放射能も添加物も同じ。 避けられるものはできるだけ避けた方がいい」と言っても理解されなかった。 親を悲しませたくはないが、価値観の違いをこれ以上見たくないとも思った。 今はもう一度、このことを話し合いたいと思っている。

§ 「避難」を認め、新しい生き方へ

結局、祖母の住む岡山市ならということで、折り合いをつけた。 夫はすぐ転職ということは考えられなかったが、何度も話し合って、2014年12月に岡山へ引越した。 東京のごく親しい友人たち以外には、引越しの本当の理由は言わなかった。

原発事故によって、近しい存在である両親との間にも、大きく異なる価値観があるのだと思い知らされた。 自分にとってそれは、見たくないことだったようだ。 だから、放射能という言葉を封印し、岡山に来たのは避難移住ではなく、単なる引越しだと思いこむようにしてきた。

でも2年近く経ち、「避難者としての自分を認めてもいいのかもしれないな」と思うこともある。 そのことで広がり始めるつながりを、最近感じている。
「原発不安、避難つながり」などのネガティブなものでなく、新しい暮らし方や生き方、考え方につながる、明るいものだと思えてきた。

§ これからやりたいこと

子どものことを一番大切に考えるが、自分のやりたいこと・できることを見つめる時間も大事にしたい。 子どもの手が離れたときのことを今から考えている。 子育てとのバランスを取りながら、好きなことを活かした仕事や暮らし方をしていきたい。
また、テレビなどマスコミは堂々と嘘をつくことを知ったので、情報を得る手段を多くし、情報リテラシーを上げたいと思う。

§ 岡山に来てよかった

祖母がいなかったら、岡山に来られていただろうか。縁もゆかりもなく岡山に来た人はすごいと思う。
岡山の人は冷たいとか言われるが、全くそんなことはない。縁を大切にしてくれると感じるし、人や地域のために、ホイッと軽々動く人が多い気がする。ただ災害への関心が弱く、持出袋を用意していなかったり、「台風も地震も来ないから」と言う人がいる。私自身も、たった2年で「岡山には災害は来ない」と安心しかけているくらいだから、その気持ちもわかるが。 移住したことについて、後悔はまったくない。

(2016.9.29 仙田・木島)