子どもが元気に暮らせる地はどこ?

【名前】庭山由紀(48才)
【同居している家族】子ども(小6)
【3.11後の避難の経緯】群馬県桐生市→岡山県和気町(2012.11)

§ 子どもの体調が悪くなっていた

震災直後、鹿児島にいる知人が心配して連絡をくれたおかげで、子どもたちだけ避難させることができ、かろうじて初期被曝は避けることができた。 しかし、長男は小学校の卒業式、娘は保育園の卒園式があったため、数日後桐生に戻してしまった。
それ以降、息子は鼻血をよく出すようになった。心配になったので、子どもたちと私は血液検査をした。 その結果、具合が悪くなっていたのは娘のほうだった。
時を同じくして、文部科学省は「群馬県にもストロンチウムが飛んでいる」とホームページで発表した。 放射能の影響を受けているのではないかと避難を決めたが、夫は気にしておらず、息子は転校を嫌がった。 まずは、娘だけでもと、万が一の時のためにと探しておいた和気のシェアハウスに避難した。

§ 和気に来てよかった

和気には、家族に反対されながらも、子どものいのちと健康だけは守りたいと必死に避難してきた関東からの母子がほとんどだった。 みな、似たような境遇なので、助け合える仲間になっていった。
地元で採れる新鮮な野菜も美味しく、地震もない。 おだやかな気候と、なにより高濃度に放射能に汚染されていない土地。 群馬にはない海もあり、ボートやヨットに乗って島に行ったり、釣りにも行ける。 何より、子どもが元気に大きくなっている。 病気の子どもを見ることほどつらいことはないから、ここの子どもたちが元気にいたずらしながら遊んでいる姿を見られるのは嬉しい。

§ 子どもの手を離してしまった後悔

後悔しているのは、息子の手を離してしまったこと。 そのため彼と暮らすことができず、彼の成長を見ることができなかったこと。 そして「避難した方がいい」という医師の診断書が出たにも関わらず、4年半、放射能に汚染された土地から避難させられなかったこと。
事故前はなかったアレルギーやアトピーが出てしまった。 彼の健康を万全にして社会に送り出してあげたいけれど、夫も息子も「大丈夫」の一点張り。 とにかく、汚染されている土地から少しでも離れてほしいと願うしかできない日々だった。

けれど放射性物質は全国にどんどん拡散されているし、恐ろしい被ばく症状がでるのは何年も先になるかもしれないし、放射能が原因だと特定されることはないだろう。 多かれ少なかれ、被曝している私たちは、ずっと気をつけていかなくてはいけない。 税金だけ吸い上げて国民のいのちと健康を守る気さえ全くない日本の政治は、私たちの不安を日々助長しているだけだ。

震災前に当たり前に思っていた「ここで結婚して子育して仕事して、お墓はここね」というイメージが、今は描けない。 どこに行ったら大丈夫なのだろう、どこに行けば子どもたちが元気に暮らしていけるのだろう・・・と。 ずっと先も、数年後、数ヶ月後も、見通しが立たない生活を送っている。

§ 科学的根拠や論理的見解や歴史の学びはどこに?

原発事故が起こったとき、私は放射能汚染調査重点地域に指定された桐生市の市議会議員だった。 行政には、市民を守るために事実を知ること、知らせる義務がある。 しかし、桐生市は「放射能汚染調査重点地域に指定されただけで汚染されたわけではない」とし、原発の爆発さえ「国が大丈夫と言っている」と危険を認めなかった。 子どもを心配する保護者たちがが、教育委員会に空間線量や給食の計測を求めたが、何カ月も計測しないばかりか、放射性物質が検出されたデータは公表しなかった(今でも公表していない)。
加えて、汚染されている桐生市のゴミ処理も安全が確保されていないのに、東北地方の放射能汚染されたガレキの焼却まで強引に行われた。

原発の危険性や、公害に対して日本政府が行ってきた歴史や、科学的な根拠や論理的見解など、学生時代わたしに指導してくれた教授たちが、今回の事故のあと、誰一人として何も対策もせず、沈黙した。「学ぶ」ことの無意味さを感じ、虚無感に襲われた。
原発事故で、社会は変わるだろう、経済ばかりでなく、健康に生きていくこと、いのちを大切にする生き方を模索する人が増えるだろうと思ったけれど、そんな世の中には全くならなかった。

(2016.12.9 飯塚・高橋)

地に足をつけた暮らしを和気町で

【名前】吉永由加里(49)
【同居している家族】夫(57),子ども(小5,小2)
【311後の避難の経緯】東京都大田区→大阪へ一時避難(2011年3月15日~3月末)→徳島、岡山へ保養(2012年夏)→和気(岡山)へ下見(9月)・母子で移住(10月)→夫が合流(2016年3月)

§ 新幹線に飛び乗り大阪へ

311時は、長男が1歳半のときから住んでいた東京都大田区にいた。自分の実家は目黒、夫の実家は大阪。当時2歳だった次男は311の揺れを怖がり、以後ぶら下がる照明が揺れるのを見ては怖がった。
翌日、夫から、当時空き家になっていた夫の実家のカギを渡され、いつ行ってもいいよと言われた。 揺れだけなら耐えられたが、3月15日になって福島原発の3号機が爆発する映像を見て、子どもを連れて新幹線に飛び乗った。 空き家にすぐに住むのは無理だろうと、大阪の友人が2泊させてくれた。その後3月末まで大阪にいた。

§ 東京での生活

4月になり、東京に戻って子どもは幼稚園生活が始まった。 園長がチェルノブイリ原発事故に詳しい人で、311後は休園になり、その間に園庭の土を入れ替えていた。 夏には外壁を塗り替え、焼き芋は鹿児島からサツマイモを、奈良から枯葉を取り寄せるという対策ぶりで、安心して子どもを園に通わせることができた。
次男は9月ごろ、脱力・意識がない・低血糖の症状が出たが、処置して直ぐに元気になった。 それから半年後に、再び同じ症状が表れ、甲状腺機能低下症と診断された。

§ 移住先を決めるまで

2012年の夏、食糧自給率の高い県がいいだろうと考えた結果、徳島と岡山県和気町に保養に出ることにした。 和気町の「やすらぎの泉」には10日間滞在した。 「やすらぎの泉」は、2011年7月のオープン以来、不安を抱えたお母さん達が滞在し、想いを共有する場となっていて、延藤さんご夫妻の優しさに支えられながら和気での移住生活を決めた母子がたくさんいる。 自分もその一人だ。 和気には、生活に必要なことは自転車で行ける範囲で事が足りるという暮らしやすさがあり、実家へ帰るのも岡山から新幹線で帰れる、という距離感も気に入った。

§ 怯えながら暮らすよりも避難を

再び東京に帰り、生活が始まった。 夏休み明けに長男が登校を始めてから三日三晩続けて鼻血を出した。 このことが、もしかしたら・・・と怯えながら暮らすよりも、避難しようと決めるきっかけになった。 9月の連休中に再度、夫と和気へ向かい、アパートを探したり、子どもの登校斑の様子を見たりし、10月には母子だけで和気へ引越した。

§ 和気での生活

移住して約半年後、次男の甲状腺の数値は正常に戻り、以来元気に過ごしている。 初めの1年2ヶ月はアパートに住み、2013年12月には縁あって家を購入することができた。 和気町の移住定住アドバイザーとしての活動や、2015年の春からは米作りも始め、とても充実した生活を送っていた。 和気に引越してからは母子での生活だったが、今振り返るとそれがすごく楽しかった。
2016年3月に夫が前職を早期退職し、和気での生活に加わった。 その後、長男が体調を崩し、医者からは「大きな環境の変化は?」と聞かれるが、夫との同居しか理由が考えられないでいる。 自分も、母子での気楽な暮らしから、夫が加わり4人での暮らしに戻ることで、今まで感じていなかったストレスもあり、離れていた家族が再び一緒に暮らすことの難しさも感じている。

§ 今、大切にしていること

311を経験して、大事にしたいものが変わった。 水、空気、土地が大切だということ、そして、生きる知恵を子どもに伝えていきたいと思っている。
和気で暮らし始めてまもなく5年がたつ。 米、椎茸の栽培をしながら、味噌を作り、梅干し・らっきょうを漬ける日常・・・東京では想像できなかった暮らしだ。 家では井戸水が使え、庭には、みかん・ビワ・苺・柿・金柑・いちじく等の果物がなる。
ここには地域や移住者のコミュニティーがあり、もしライフラインが断絶しても暮らしていけるという安心感がある。 地面にしっかり足をつけた暮らしを大切にしながら、和気町の移住定住アドバイザーとして、これから移住を考えるご家族のお手伝いができれば、と思っている。

(2016.12.9 高橋・飯塚)

確かなものは人とのつながり

【名前】杉岡直人(50)
【同居している家族】妻(48),娘(14),犬・ヤギ各1匹
【3.11後の避難の経路】福島県小野町(震災時)→静岡県(2011.3.15)→大阪府(3.19)→兵庫県(3.26)→岡山県久米南町(3.29)

§ 長男のひとことで避難

恐怖心が先に立って冷静さを失い、「日本中に原発があるし、どこに逃げても同じだ」と思ったが、当時中3の長男の「逃がしてくれ」というひとことで避難を決めた。原発事故を調べていた私の兄から再三「逃げろ」と言われたり、家内が原発事故について分かっていて、諦めたようなことを言っていたので、それを聞いて逃げたいと思ったのだろう。

§ 原発から遠い岡山へ

当初は、東京まで避難して、子どもたちを兄に預けて、福島へ帰ろうと思っていたが、東京もだめで、どんどん西へ行った。 全国の原発から半径50km、100㎞の円を描いて、引っかからないところ、地震や津波が少ないところを探したら、消去法で岡山になった。 兄が震災直前のイベントで知り合った岡山の人に連絡したら、「家を一軒あけて待っているから」と言ってくれた。 最初は、親戚や友人など3家族同居の避難生活だった。

§ 福島の友人への想い

福島に残った友人たちがみんな無事なので、それはよかったと思う。 ただ、地震も原発事故も過去の話、なかったことにして、経済を復興させることだけを、行政や社会が目ざしているように感じる。 それに福島の人も乗っかっているのかもしれない。 自分が求めていた福島とは違ってしまったので、求める生活ができる場所に移り住んだわけだが、すべてを投げ出して、後始末もせずに出てきたことは気になっている。 おととし福島へ帰ったとき、5年ぶりに友人と話したが、私が避難したことをそれほど気にしてないとわかって、安心した。

§ 損得ではないこと

不確かなものが多くなり、確かなものは人とのつながりだけかなと思う。 損得勘定を抜きにしたら、人づきあいはうんと楽になるし、損得勘定がどれだけ人を不幸にするかを、震災で目の当たりにした。 危ないけどお金になるから、予算がついて仕事があるから、原発にも行くわけだ。 東京の仕事をやめてから十数年、福島で暮らした後に震災に遭い、「最終的に家族の幸せとは何か?」を考えるようになった。 「お金は儲けたが、子どもがガンになった」というのでは、幸せとはいえない。 人はいつか死ぬが、そのとき「幸せだったなあ」と思える生き方をしたい。

§ 被害者・加害者を超えて

自分は避難して被害者だと思っていたが、加害者かもしれない。 東京に生まれ育って、東電の電気をバンバン使っていたし、銀行で働いていたときは、「お金がなければ生活できないですよ」と人々に思い込ませていた。 「お客さんのため」と言いながら、自分のため、ノルマのためにやっていた。 住んでいた町に、福島原発に働きに行ってる人がいたが、その人は加害者なのかというと、そうとは言い切れない。 被害者・加害者ということではなく、損得を抜きにした関係が作れればいいと思う。 なぜ事故を起こしてまで、原発をしなければならなかったのか。 それをしなければならなかった人たちを、もう作らないようにしたい。
便利な世の中になったが、便利さが生活を忙しくさせている。 高速で移動できる手段があるから、急がなくてはいけない。 携帯があるから、直前に予定が入る。 LINEをしているから、自分の時間がない・・・。 スローライフという言葉もできて、気づく人も増えているが、そういう人が増えるほど圧力も大きくなるかもしれない。

§ 岡山で充実した生活

望んでではなく、たまたま来た岡山だったが、有機農業や自給自足など、福島でしたかったことができるようになった。 福島では自給率1~2%だったが、今は米・小麦・豆を自給しているし、直接販売もしている。 おととしは高校卒業30年、昨年は大学卒業25年の会があり、参加して近況を話したら、米や野菜を取ってくれる人が急に増えた。 岡山に来たからこそ、福島にいたときより充実した生活ができていると思う。

(2017.1.18 宮岡・仙田)
                                

毎日をゆっくり丁寧に

【名前】下山田桂(45)
【同居している家族】夫(51),長女(16),長男(10)
【3.11後の避難の経路】千葉県いすみ市(震災時)→神奈川県(2011.3.12)→愛知県(3.13)→兵庫県(3.14)→島根県(3.15)→千葉県いすみ市(3.28)→岡山県津山市(7.2)→岡山市(2012.3)→同市で転居(2015.4)

§ 迷わず決めた避難

夫は実家が茨城県東海原発の30km圏内にあり、チェルノブイリ原発事故後に放射能の危険性を認識し、反原発運動に関わるようになった。 私も大学生の頃に、チェルノブイリ支援団体のお手伝いで新聞記事の翻訳などをしていた。
東京で結婚後、子育てを田舎でしようと移住先を探した際には、各原発からの距離と風向きを考えて、万が一原発事故があった場合でも、最も汚染が少ないと想定されるエリアを関東圏で選んで引越した。 原発事故の発生時には政府が詳しい情報を決して出さないことを知っていたので、迷わず緊急避難を決めた。

§ 高速を西へ西へ

3月11日は本震後も、大きな余震のために頻繁に揺れていた。 電車とバスで小学校に通っていた娘は、学校から帰宅できなかったため友人宅に預かってもらい、3月12日の午前2時頃に車で迎えに行った。 友人宅に集まった他の家族と一緒にインターネットニュースを見ていて、原子炉の冷却ができなくなったことを知り、東京の職場にいる夫に相談したところ、「避難したほうがいい」と言われた。
翌朝、東京湾のアクアラインを千葉県木更津市から川崎へ渡り、夫と合流。 12日夜は友人のご主人の実家に泊めてもらった。 翌13日朝、友人一家と一緒にミニバンで西へ向かい、13日は愛知県の友人宅、14日は兵庫県の友人の実家に泊めてもらった。 関東から逃げる人はまだ少なかったのか、予想に反して高速道路はガラガラだった。

§ 松江での共同生活

15日、岡山で友人親子と別れ、以前夫が仕事で定期的に通っていた島根県松江市に向かい、知人の実家で元女子短大の寮をやっていた元気な老夫人のところに、9日間泊めてもらった。
千葉で8年間ホストをしていたWWOOF(ウーフ。有機農家で農作業を手伝いながら無料で宿泊するシステム)のメンバーが、「いっしょに避難したい」と合流したり、義妹とその子ども2人が加わったりして、松江では9人+飼いネコの共同生活をした。 毎夜インターネットカフェに通いながら、仕事を続けていた。

§ いったん千葉に戻る

その後、3月末に千葉県の自宅にいったん戻った。 上の子はホームスクーリングをして、子どもたちはほとんどの時間を室内で過ごした。 下の子どもは敏感な体質で、頻繁に鼻血を出し、他の家族も咳や鼻づまり、傷が治りにくい(蚊に刺された痕が化膿する)などの症状が出た。 私も、たわわに実った庭のスモモを、「少しくらいなら大丈夫かな・・・?」と思って食べ、ひどい下痢をした。
子育てをともにしてきた自主保育やシュタイナー学校の仲間とは、生活上の考え方を共有していると思っていたが、放射能についての考え方は人によって大きく違っていた。 近所でも福島からの避難者を受け入れる活動が始まり、とても複雑な気持ちの中、移住の準備をしつつ、他県や海外に移住する仲間を見送った。

§ 岡山に引越し、義父を看取る

2011年7月初旬に、9年半暮らした家と、自然農を実践していた田畑を大家さんに返し、最低限の物だけ持って、母子で岡山県津山市に疎開した。 最初の2か月は友人家族が避難してきており、多いときは11人+飼いネコの共同生活だった。 その後、岡山市建部町に転居し、2年間は友人家族と家をシェアしていた。 夫は東京の仕事場に寝泊まりしていたが、2012年いっぱいで東京の仕事場を閉じて、2013年1月に合流した。
その数か月後、茨城県に住んでいた夫の父が末期ガンであることがわかり、岡山に引き取って、亡くなるまで在宅介護した。 人間ドックの前日までゴルフをしていたほど元気だったのに、検査を受けてから坂道を転げ落ちるように容体が悪化し、約1か月半で帰らぬ人となった。

§ 毎日をゆっくり丁寧に

今は家族との関係を大切にしている。 3.11前はずっと仕事が忙しく、食事の時間以外はほとんど子どもたちを、同居のウーファーさん(ウーフのおねえさん・おにいさん)たちに任せていたが、3.11後は家族の関係が密になった。 避難して最初の2年は子どもとじっくりつきあい、その後の2年は夫との関係を修復してきた。
3.11後は、毎日の重みが変わった。 「こなしていた」のが、「ゆっくり丁寧にする」ようになったと感じる。
また事故前は、自然志向の生活をしている人と主につきあっていて、「わたしたちだけで自然に即した生活をしていればいい」という感じだったが、3.11後は社会への目が広がった。以前は社会的なことに興味がない人の考えが理解できなかったが、今は他人の価値観に興味を持てるようになった。

§ 岡山に来てよかった

岡山の方は「自分と違うことに慣れていないんだな」と感じることもあるが、(陸上自衛隊の駐屯地がある県北の)津山市日本原に住んでいたときは、人の入れ替わりが多いためか、他からやってきた人に対してウェルカムな雰囲気だった。 また、「岡山は暖かい」という印象を持っていたが、県北や県央の中山間地はとてもとても寒いということが、住んでみてわかった。
一方で、関東と共通点もある。 私の実家は山梨県だが、岡山にも同じくモモ、ブドウ、スモモがある。 山や川もあって親しめる。 人間関係にも違和感はない。 岡山に来て本当によかったと思っている。

(2017.1.18 仙田・宮岡)

食をとおして暮らしを考える

【名前】菅野久美子(30代)
【同居している家族】子ども(10)
【3.11後の避難の経緯】福島県伊達市(震災時)→東京都(2011.3)→神奈川県(2011.4)→東京都(2011.6)→岡山県玉野市(2013.3)→同市で転居(2015.3)

§ 心身ともに傷つかないほうがいい

3.11の後、子どもが福島にいることによって、心身ともに傷つかないほうがいい、と思い福島を離れた。けれど東京で、震災前と変わらない、消費をつづける暮らしを送っていることに抵抗を感じて、「もっと暮らしを大事にしたい」と岡山へ移った。

§ 人生の楽しみ方

震災後の5年で、本当に自分が変わった。 福島や東京にいる時とはまったく違い、暮らしが楽になる知恵がついて、生活もシンプルになってきた。 やりたいことを行動に移せるようになった自分にも驚いている。
いま私のまわりには、生きることや暮らすことに対して真面目な人がたくさんいる。 自分で考えて決断し、人生に対しての責任を負うことを、のびのびあたり前にやっている、本当の意味での自由な人たち。 人生の楽しみ方を共有できる人たちと、ワイワイ話して過ごせることに豊かさを感じているし、この中で子どもたちを育てて行きたい。そして、今を幸せと思うくらいに悲しいこともいっぱいあったし、傷ついたこともいっぱいあった。だから余計に、いまが嬉しいのだと思う。

§ ここに根を張る覚悟ができた

昨年「福島から岡山へ~原発事故から5年目のいま」の冊子の取材を受けたけれど、この1年で、ここに根を張る覚悟ができてきたようだ。
これからの仕事を考えたとき、自分が関わったものが何かを傷つけることに使われるよりも、みんなで一緒に楽しく幸せになることをしたい。 お腹を満たして無添加の安心できるおやつをみんなで食べたい、と思った。 そこで、ここで出会った友人と、蒸しパンのお店「3時のおやつ」を始めることにした。

§ 面白い出会いや成長が密かにある町

お店のある玉野、とくに宇野駅周辺は暮らしやすい。 田舎だけど閉じていない、港町で色々な人が出入りする、来るもの拒まず、出るもの追わずの町だから、わたしたちがやることに大きな関心もないけれど、否定もしなくて、そこが良い。 小さい町なのに、何かを始める人や、フラッと滞在する人もいて、面白い出会いや成長が密かにある。いいタイミングでいいところに越して来られたと思っている。
§ 距離が離れていることで許しあえる

わたしが変わったから、震災前と変わらないことを選んだ家族とは、どんどん価値観が離れてきた。 一緒に暮らすと大変だろう、距離が離れているくらいがちょうど許しあえるのかなと思う。 けれど、妹が食材を何気なくチェックしてくれたりするようになってきた。 開いた溝は無理に埋めようとしなくても、あきらめないでいたい。

(2016.11.29 飯塚・仙田)
  

「3時のおやつ」 玉野市築港1丁目18-3
「小腹がすいた」ときにちょうど良い手作りおやつの店。岡山県産小麦、九州産大豆の豆乳、米飴などを使い、卵・乳製品不使用の身体に優しい蒸しパンの製造販売と、暮らしを考える講座・ワークショップ(不定期)を行う。
*3時のおやつFacebook http://www.facebook.com/3jino.oyatsu.tamano

和気暮らしをはじめるための応援ガイドがあったら

【名前】田中まさみ(30代)
【同居している家族】息子2人(4,7 2016年11月1日現在)・夫
【3.11後の避難の経緯】埼玉県→広島県尾道市で保養(2012年夏)→徳島・尾道・岡山(2013年春)→岡山県和気町(2013.初夏)

§ 避難を決めた理由

埼玉ではこのさき2歳と妊娠中の子どもを育てられないと思いました。
保養先で仲間がいることを知りました。
「こられえ岡山」を見て、「こんな冊子がある岡山でなら母子でも暮らしていけるかも」と思いました。

§ 避難の経緯

2011年 東日本大震災 放射能について初めて知った
2012年 夏休み 初保養に広島尾道へ
2013年 春休み 埼玉を軽自動車で母子で出発。徳島・尾道・岡山でシェアハウスや民家などを転々したのち、同年11月和気のアパートに落ち着く。
2016年 夫が岡山にきて同居再開したが、夫婦関係の難しさに頭をたれる。

§ 『こられえおかやま』との出会いと『和気町ぽかぽかガイド』

2013年5月、とりあえず埼玉を出たものの、落ち着く先を決めかねていたわたしが出会った冊子が『こられえおかやま』(「子ども未来・愛ネットワーク」制作)でした。 初めて岡山に来た私に必要な情報がすべて掲載されていました。 『こられえおかやま』を手にしたその日から、ずっと持ち歩き続けたのでもうぼろぼろ…。 そのおかげで、岡山で母子3人で暮らすことを決意できて、いまも和気町で暮らしています。

和気町には、シェアハウス「やすらぎの泉」があります。 わたしもそこで4ヶ月ほどお世話になりました。 私が去った後も、「やすらぎの泉」に保養・移住目的のお母さん達が次々と来ました。 そんなとき、「はじめての岡山暮らし応援ガイド」の『こられえおかやま』があったように、「はじめての和気暮らし応援ガイド」があったなら、どんなに役立つだろうという思いが消えなくなりました。

そこで、シェアハウスの世話役をしてくださる延籐さんや先輩移住者から、日々の中で教えてもらった和気の情報を次の人に伝えるべく、2016年5月『和気町ぽかぽかガイド』(通称 和気ぽか 福武財団・和気町協力 定価300円)を発行することができました。 東京・大阪で開催されている「移住相談会」(岡山県主催)でも和気町が「和気ぽか」を配布してくれています。 まだ見ていない方はぜひ見てください。移住希望者には和気町から無料送付してもらえます。

§ 岡山LOVE!

わたし自身が幼い子どもを2人抱えて初めて和気に来たとき、和気のことを何にも知らなくて…という心ぼそさがありました。 避難してきた移住者は、自分が経験した心ぼそさといろいろな人に助けてもらった感謝の気持ちを、 あとから来る移住者のサポートすることで恩返ししていく…そんなつながりができているのが、岡山の人達のすばらしさかなと思っています。 岡山LOVEです。
さらに念願!津山の稲葉化粧品店で稲葉さんママにもお会いすることができて、ますます岡山LOVEです ^ ^

§ 夫との同居再開は幸せ!! かどうか

母子3人を3年経て、めでたく?夫が合流し4人の生活となりました。 待ちわびた同居でしたが、そうは問屋が卸さないんですね。
同居を再開した方々の話を聞くたびに、「まさか」せっかく旦那さんがいるのに?そんな「ぜいたく」?「わがまま」?と内心感じていたことが、 自身で経験するとよくわかりました。うまくいきません笑。
なぜでしょう。

それぞれのご家庭で違いはあるにせよ、別居期間があることは、夫婦の危機になりかねる問題のようです。 夫に限らず長く暮らしている身内というのは、「それくらい察してくれ」「なんでそんなことがわからないの」という甘えがあります。 子どもとは強固なつながりが既にあるはずだと思うので、もともと他人の夫婦こそ、お互い気合いを入れて、関係を見直したり、うまくやっていくための努力がすごく必要なのだとわかりました。
これから同居再開を予定されている方、心して頑張ってください(笑)
いや、すみません、楽しく同居再開されている方もたくさんいるハズ!!

(2017.2.8 本人記述)
  

【和気町あるある】

保養できるところを作ろう

【名前】匿名
【3.11後の避難の経緯】関東→岡山(2014年春)

§ 子どもたちを守りたい

3.11後、住んでいる地を測定したり原発事故のことを調べているうち、被害は永く続くと思った。 自分のまわりにいる関東の子どもたちに、安全な水や食べ物、保養して移住を考えられる場所を作る必要がある、子どもたちを守りたい。そう思い、仲間たちと3年かけて準備をした。

§ せっかくなら田舎を楽しめる環境で

関東から来るのに交通の便の良い岡山にしよう、せっかく地方に来るなら多少田舎を楽しめる環境で、と保養に来た人が移住することも考えながら探した。 子ども未来の大塚さんをはじめ色々な方にお世話になって一軒家を借りることができ、関東から何度も通いながら準備をすすめた。

一方で「山間部は大変だよ」とまわりに言われていたが、確かに方言にも苦労した。 岡山に来て1年も経つ頃、移住してきた目的の保養場所を作ることが、毎日の仕事や生活に翻弄されるようになっていた。 そこで他の保養に参加しながら勉強を重ね、自分たちの保養をあらためて考え直している。

今でもその答えはまだ出ないけれど、この2年、保養や移住の下見にきた親子からの声を綴ったノートには、たくさんの笑顔がある。 はじめは身近にいた子どもたちを迎えるためだったけれど、今もっと多くの方々に利用していただけたらと思っているところ。

§ 自分にとっての幸せ

長年、子どもと関わる仕事をしてきたけれど、改めて自分にとっての幸せは、子どもとの関わりの中で生きていくことだと思った。 子どもが育ち大人になっていく一番たいせつな仕事をしていたい、そこが自分の軸になっている。

岡山に来てから、本当に素敵な人たちとどれだけ出会えたことか。 たくさんの人と子どもと関わりながら、人間としてちゃんと生きていられる、純粋にそれが一番嬉しい。

(2016.10.30 飯塚・宮岡)